Production Note プロダクションノート

中島みゆきが他のアーティストとい一線を画しているのは、そうした楽曲の普通性と言うだけではない。89年からスタートしている『夜会』は、彼女が、脚本・作詞・作曲・歌・主演という五役を務めるという音楽舞台である。それ以外にも演出や美術など、1つの舞台に関わるあらゆることが彼女のイメージで進められ、しかも約一ヶ月のロングラン公演というのは世界にも例がないはずだ。チケットが入手困難舞台としても知られている。

当初は“言葉の実験劇場”“みゆきの歌に手が届く”というキャッチフレーズで始まった。すでに世に出ている曲を、違う環境や構成の中で歌うことで、新しい光を当ててゆく。

そんな試しみは、曲が生きるストーリー、オリジナルの脚本、その為の書き下ろしの新曲へと発展し、『夜会』から映画や小説まで生まれていった。2014年の上演作『VOL.18・橋の下のアルカディ』は6年ぶりの新作。使われている曲は新曲33曲。延べ46曲。全編が音楽で進行するという新しいスタイルだった。

1つのことが終わると、やれなかったことややりたくなかったことが次々出てくるので、やり終えるということがない』

彼女は、自分の創作活動について、そう言っていたことがある。2012〜3年のコンサートツアー『線会』も、まさにそんな例だ。『宴会』ではなく『線会』である。

コンサートは、その日の会場の構造や観客の反応、ミュージシャンや本人の体調なども構って成立する。その日のライブはそこでしか作れない。彼女の言を借りれば“一期一回”の集まりである。ツアーのライブ映像が2008年に出た『歌旅〜中島みゆきコンサートツア−2007』まで存在しなかったのもそういう理由だ。日本全国どこの町の人が見ても共有出来るようになった、というのが発売の根拠だった。

『夜会』が脚本や音楽に沿って、徹底して作り込まれた舞台だとしたらコンサートは彼女の素の姿と歌を共有する時間。CDとして世に出ていてそれぞれの人々の“緑”を紡いでいる歌を生の歌と演奏で聞いてもらう時間。それをコンサートと呼ばずに『線会』とした。

2012年10月25日から2013年5月23日まで全国13会場29公演。その模様を納めたのが、この『線会2012〜3劇場版』である。

彼女の映像作品が映画館で上映されるのは『歌旅』『歌姫』『夜会VOL.17 2/2』『離まつり』に次いで五本目。『歌旅』は、発売されている『歌旅〜中島みゆきツアー2008』から、ツアー中のオフショットなどを除いたライブシーンだけを緊げたライブ映像、『歌姫』は、ミュージックビデオ2007年のロスのスタジオライブと二本立て。いずれも既発の作品を再構成したものだった。

『線会2012〜3劇場版』はそうではない。『線会』の演奏曲の9割を収録している。90年代を飾った1曲目の『空と君のあいだに』からアンコールの『ヘッドライト・テールライト』までの20曲の中には、彼女の原点とも言える『時代』や、00年代の一位曲『地上の星』、27年ぶりにステージで歌われた『世情』も含まれている。

選曲の核になっているのは前作アルバム『常夜灯』の中の曲。体温や息づかいが伝わってくるようなジャジーなアレンジは、これまでのアルバムにはなかったものだ。一語一語に感情が乗り移ったような彼女の歌と一体になった演奏、音楽が作り出すステージと客席の空気を包み込むような照明。カメラは様々な位置からそうした空間を蒸しむように納めている。

当たり前のことながら、映画館はコンサート会場とは違う。大画面や大音量。客席からは見ることの出来ない角度や距離。歌っている表情や手の動きや衣装の質感に至るまでの細部を見せてくれる。翁長裕が切り取った映像は、カメラの台数を競い会うようなトリッキーなものではない。歌の世界に入り込んだような一体感のある映像自体が音楽の一部のようだ。13曲目の『泣きたい夜に』から最後の『月はそこにいる』までの息詰まるような空気を感じ取って欲しい。中島みゆきの界にどっぶりと浸ることが出来る。

そもそも『夜会』の始まりは“コンサート会場の限界”を超えるという狙いもあったように思う。6時半開演9時終演という時間。セットや演出の規制や客席の条件。『夜会』のロングラン公演は、それから解放されることで可能になった。映画館には、そうした制約はない。大画面の中島みゆきは、CDともライブとも違う優しさで迎えてくれるはずだ。

映画館の暗闘で、もう1つの『線会』が始まろうとしている。

                                                                        <文:田家 秀樹 音楽評論家>